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みんなの外壁塗装ガイド

【外壁塗装をDIY】還暦記念、古希記念の奮闘記 第六話

中塗りでの出来事と若かりし自分との対比

中塗り

シーラーによる下塗りは終わりました。この時点で、塗装開始から1週間が経過しました。
この時期は、本来なら7月初めの梅雨期の真っ最中のはずなのに、雨は一向に降りません。その代り、陽差しが日ごとに強くなり、その分暑くなってゆきました。
ただし、ペイントの本塗りに入るには好都合です。塗り始めると、シーラーが“ピチピチ”と粘り気のある音をさせて、いかにも「塗っているんだぞ」という爽快な手ごたえを感じさせます。右手に持ったローラーを手の届く限り伸ばして、塗りめぐらしてゆくのです。

そうしながら、徐々に塗る位置を移動させてゆくのですが、その爽快さが突然にして不快さに変わる一瞬があります。それは、移動をしたことで、命綱がピーンと張り伸ばされて、反動的に私の身体が後ろに少し引き戻される瞬間です。
すると、いったんは体を後へと少し戻し、命綱を一旦外してフックを掛け直さなければなりません。それが結構面倒で、ストレスなことなのです。
しかし、そこは足場の3段目ですから、命綱なしでやってはなりません。眼下を見下ろすと、足がすくんでしまいます。落ちたら大けがは間違いなく、場合によっては命を落とすことにさえなりかねません。
ですから、あわてて命綱を架けなおします。それでも、時々は架け直すのを忘れている場合があり、気付いた瞬間はハッとして我に返り、背筋に冷たいものが走るのを覚えます。

高さに強い職人さんについて時々思うことですが、2階の屋根くらいだと、あなどって命綱を付けずにやる人が少なくなく、見ているこちらが大丈夫なのかと心配することがあります。中には、屋根の先端でゴルフのスィングをしている余裕の職人さんさえいます。
体が慣れているのか、生まれつき高いところに強いのか。それは判りませんが、屋根から落下した時のけがは、プロもアマチュアも同じです。プロだからケガが少なくて済むとは、到底考えられません。
ですから、私の高いところに関する臆病さは、多少病的ではあるものの、正しい感じ方に違いないと自分に言い聞かせています。

今さらDIYを後悔し始めました

外壁塗装そのものは、壁が綺麗になってゆくので楽しいのですが、やり進めてゆくうちに、無性に疲れを感じるようになりました。記憶の中にある11年前の塗装のときには、そのように疲れた記憶がほとんどなく、むしろ爽快感に満たされていた記憶しかなかったのです。
だからこそ、その時にもう一度、10年後もやりたいと思ったに違いありませんでした。

しかし、前回(11年前)の塗装時と72歳になった現在でやることには、加齢的な条件でおのずと無理があるのを自覚せずにはいられませんでした。無理もありません。つまり、それだけ年齢的な黄昏の加速度が早まっているに違いないのです。
たとえば、その状況を折れ線グラフで示すなら、31歳の人が42歳の時に同じ作業をする疲労の度合いは、その折れ線の下降具合がまだ緩やかな勾配に違いないのです。
ところが、61歳の人が72歳の時に同じ作業をするときの下降線では、おそらくその勾配は急降下を描いているに違いありません。休憩時の三橋美智也の歌声に癒されはするのですが、再び外壁の戦場に立っても一向に意気が上がりません。

また、外気の暑さもやけに堪えるようになってきました。熱中症も心配です。いつか内心少しずつ、自分でやり始めたことの無茶ぶりを後悔し始めて、今度ばかりは業者に頼めばよかったとの反省にさいなまれる結果となりました。
ですが、作業全体の30%に及んだ今更において取り返しはつきません。第一、途中で投げ出しては男がすたります。そのため、自分の心を無理やり励まし、自分の心の鞭でお尻を叩いて、さらに眉をきりりと上げて取り組まなければならないと、思い直す結果となりました。

きりりと眉を上げた我が雄姿
きりりと眉を上げた我が雄姿

地震の怖さとボロ家の悲しさ

ツーバイフォ―工法は…強いです

一時は、我が家を建て直すことも真剣に考えたことがありました。なぜなら、私はサラリーマンの頃、今のLIXILグループ系列の住宅メーカーに勤めていましたから、大幅な社員割引制度を利用して建て直すことも出来たからです。
その割引が半端な金額ではありません。どんなに安くても注文住宅の場合、1500万円は下らない商品を買う訳ですから、その割引率は何百万円です。まさに特権です。
建物もツーバイフォー工法でしたから、地震には極めて強く安心でした。私が今も住んでいる我が家に比べたら、強度は我が家の3倍近くあったに違いありません。

かつての阪神淡路大震災の時には、耐震性が見事に証明されました。
震災の14日後に会社の命令で、震災被害の現地に入りました。その時私が見た限りでは、ツーバイフォ―工法で倒れた建物は一棟も見ることはありませんでした。倒壊現場のほとんどが、今の私の家と同じの在来工法で建てられたもので、その通し柱(隅柱)が1階と2階の中間で見事に折れていました。押し潰された1階の上に、2階が潰れないままで上に乗っかっている恰好となっていたのです。
つまり、一見して平屋のようなかたちとなっていたのです。ですから早朝の地震の時に1階で寝ていた人たちは、そこで圧死したのでした。

神戸から戻った後、私は真剣に建て替えを検討したのです。しかし、現実は資金不足で、子どもの教育費にお金がかかる状態でした。
震災の4年後には、それまで16年間払い続けていた住宅ローンがあと4年で終わることもあって、早くその開放感を味わいたい願望もありました。今さら新しいローンを背負うことへのためらいもあり、建て替えをあきらめざるを得ませんでした。

地震のせいで父の権威が堕ちました

神戸で見た震災は、その後私にとっての大きなトラウマとなりました。2階の3部屋を子どもたちに占領されていて、1階で寝ている立場の私にとっては、それ以降の地震はまさに恐怖でした。
地震のたびに神戸の非惨な情景が思い出されます。地震で揺れている間は、寝床で戦々恐々の面持ちで揺れの止まるのを待たなければなりませんでした。

そんなある夜のこと、いきなりきつい地震が来たので、思わず私は一人で家の外に飛び出してしまいました。それに対する被害は特になかったのですが、それ以降私は3人の子供たちから「お父さんは僕たちを見捨てて逃げ出した」との非難を一斉に浴びる羽目となったのです。
おかげで私の父親としての権威は、すっかり地に墜ちてしまいました。当分は子どもたちから放たれる冷たい視線に、ひたすら耐えなければならなかったのです。

ローン完済時の周囲からの嬉しいお気持ち

阪神淡路大震災の4年後にローン完済見込みのことで、ふとこんなことを思い出しました。
それは、今から約18年前の私が54歳の時です。ある日、0年間払い続けた住宅ローンを返済するために、最後の240回目の払込金を持って銀行へ向かいました。そこは、車で20分ほど走ったJRの駅前にあった三井銀行で、数名の職員がいる小さな出張所でした。
しかし、自動引き落としでなく、毎回そこへ払込みに行っていたのです。ですから、いつの間にか職員のみんなとは、すっかり顔なじみとなっていました。

そこで、最後の払い込みの時、私は20年間払い続けたローンが終わることの感激を、何かのセレモニーで示したいと考えました。突拍子もないことを思い付いて、そのことを銀行の皆さんにお願いしたのです。
それは、最後のローンを払い終えた瞬間に、私がその場で手を上げてバンザイを三唱するので、すっかり懇意となっていた案内係のおじさんに、ともにバンザイをしてほしいと頼んだのです。
そのおじさんは私よりは7~8歳は年配で、どこかのちゃんとした会社を真面目に勤め上げて定年となり、第2の仕事としてその出張所の案内係をしているような方でした。身長は低く、浅黒い顔色で、どこか地味で目立たない人だけれども、その全身からはいつも誠実さがにじみ出ているような好感の持てる方でした。いつ銀行に行っても、こつこつとお客様第一のサービス精神で仕事に励んでいたのです。
そのおじさんに理由を話して、私と一緒バンザイをしてほしいと頼み込むと、意外にも快く引き受けてくださいました。そして、最後のローンを払い終えて私が、バンザイ、バンザイ、バンザイを3度繰り返すと、そのおじさんも私のそれに合わせて両手を高々とかざし、バンザイを合わせてくださったのです。
すると、そのことを予め承知していた事務所の中の4名の職員の方たちが、一斉に拍手をしてくださいました。
ところが、そのいきなりの出来事に驚いたのは、そこに居合わせた3人のお客さんたちです。一瞬、何事が起ったのかと目を丸くして驚いていました。しかし、理由を知ると、お客様たちまでが引き続いて拍手をしてくださったのです。
とても人騒がせで図々しい話ですが、感激したことを今も忘れることができません。

でも、愛しているんです

通帳よりも思い出の写真が大事です

そんな歴史を踏んだ住宅ですから、私は何よりもこの家を愛しています。買う時に公庫の優良住宅基準にもかなわないミニ開発で、しかも注文住宅でない売り建ての家でした。
しかし、それでも妻とともに20年間もローンを払い続け、やがて三人の子どもたちが巣立っていったこの家が大好きです。この家の容積には、いっぱいに膨らんだ家族の歴史が、そしてその思い出がたくさん詰まっているからです。

すでに、子どもたちはそれぞれが家を出て独立し、今は妻と私との二人きりになってしまいました。ですが、家の中の押し入れやタンスには、三人の子どもが幼かった頃の思い出の品が、今もいっぱい詰まっていて、貴重な写真などが保管されています。
そのことで妻とよくする話として、「もし我が家が火事になったなら、写真のアルバムだけは絶対に持って逃げようね」と話すことです。他にも大事なものとして、貯金通帳や家屋の権利書また保険書などもありますが、それらは仮に焼失したとしても、覚えてさえいれば後々の手続きで何とかなることでしょう。
でも写真だけは取り返しがつきません。それらは、家族の過去の時間と出来事を唯一証明してくれるかけがえのない記録であり財産だからです。ですから、万一の場合にはそうしようと話し合っています。

妻が好き…よりも、愛しています

そのように、私はこの家を愛しています。単に好きとか嫌いとかの話ではなく、愛しているということです。好きと愛するという言葉の定義や概念は、似ている部分もあれば違う部分もあります。
私はその両者をあえて比較して、「好き」よりも「愛する」ことの方が何倍も深くて高く、さらに滋味に富んでいると思っています。
それを家に例えるなら、現在あちらこちらで建てられている家は頑丈です。さらに、美しさでは近代的にセンスアップされたスマートな建物で、思わず見とれてしまいます。つまり、その意味や感覚が「好き」という事です。
ところが、「愛する」ということは、その建物の容姿や機能の卓越性、また新しさに左右されることはありません。それがどんなにボロ家であり、また美しさや機能性に劣るものであったとしても、それがいかに自分にとって身近であり、また自分の人生の証しでもあるか。自身と家族にとって思い出がいっぱい詰まっているかけがえのないものであるならば、それが深い滋味に富んでいて「愛する」ことであり、そしてまた愛せる対象であると思えることなのです。

女性に例えるなら、いま私の目前に素晴らしい美しさの若い女性が現れたとします。ところが、片や私の傍らにいる女性は、今やもう66歳になる年老いた妻となっています。それ自体は、もう自分自身も70歳を超えているのですから仕方ありません。
けれども仮に、ちょっと理不尽で残酷な例え話となるのですが、独裁的で極悪非道な専制君主から、いきなりそのどちらかの女性を選びなさい、そしてその2人のうちの1人を選んだなら、その選んだ方をお前の妻として与えるが、選ばなかった女性の方は私(君主)のものとすると言われたなら、どちらを選択するのかという極端な想定です。
必ずそのどちらかを選ばねばならない立場に立たされたとしたら、私はやはり66歳の今の妻を躊躇なくそして惑うことなく選ぶ結果になること思います。たしかに、相手は若くて美人の女性かもしれません。しかし、その選択の根拠や本質が、単に好きとか恋するとかの軽々しい意味ではなく、やはり究極的に愛している運命共同体である妻だから、という意味です。

妻への感謝

結婚して早くも46年、そして4年後には金婚式を迎えるかけがえのない伴侶。何事が起ころうと一心同体の配偶者。3人の子どもを健康に産み、育ててくれた立派な母親。また、いつもこの家の手入れを怠らず、さらにローンのために自分の欲しいものさえ我慢して、この家を支えてくれた人生の動労者だからです。
そのことは、単に妻という女性を指すよりも、もっともっと奥深く滋味に富んだ人生の盟友を意味している、そうしたことの深遠さに満ち満ちているからに違いありません。

ですから、それとまったく同じ意味で、私はこの家を愛しているに違いありません。そう思うと、今塗装を行なっているこの建物の一部に過ぎない木の一片や壁の一部分、屋根瓦のたった一枚までもが、実にいとおしく思えてきます。思わず頬ずりしたくなる気分に駆られるから不思議です

他ならないこの家こそが、今まで40年近くを暮らし続けてきた家族の命を、季節の寒さや暑さから、また人の世の世知辛さからも一心に守り続けてくれたそれなのです。愛さずにはいられません。

そのような事柄を胸に思い浮かべながら、私は懸命に塗装を行い続けました。そのペイントのひと塗りひと塗りこそ、私の人生の毎日、毎日の積み重ねのように思えたからかもしれません。
やがて、そうこうしているうちに、中塗りを無事塗り終えることが出来たのでした。

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