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みんなの外壁塗装ガイド

【外壁塗装をDIY】還暦記念、古希記念の奮闘記 第五話

シーラーによる下地塗装とヘルメットの重要さ

シーラーによる下地塗装

洗浄の次は、きれいになった外壁の上にシーラ―を塗装する「下地作り」を行います。
シーラーは、透明な液体で粘着性があり、塗装面を安定させ、外壁に塗る塗料を密着させる役目を果たします。
壁を3層に塗りますが、まずシーラー塗装が第1層目となるのです。その上に仕上げのペイントを二度塗ることになり、全部で3層になるのです。

シーラーを使うには、缶の栓を抜き、ペイント皿に少量ずつ出します。やり方は、後の中塗り・上塗りのときとまったく同じやり方となります。
シーラーや塗料を塗るには、主に塗装刷毛を使います。しかし、大きな壁面を塗るときは、塗装刷毛よりもローラー刷毛の方が塗りやすく効率が高いと思われます。ローラー剛毛なら、ムラなく均等に塗ることができるからです。
単なる平らな壁面なら、ローラー刷毛を使うことによって、プロとアマの相違があまり違わない出来上がりとなります。塗ってゆくと、塗ること自体が大変気持ちよく楽しく行えます。

「頭にくるヘルメット」ですが、命を守ってくれています

命綱が私の動きを制御して不愉快でした

ところがそうした状況でも、一瞬不愉快に感じる時があります。それは、一つに命綱の存在です。命綱の大切さはすでに語りましたが、塗装中に命綱の存在を忘れているとき、命綱が私の動きにストップをかけてくる瞬間があるのです。
命綱の片方の先端が、足場のパイプにフックさせたまま自分の体を移動させるからなので当たり前なのですが、なぜか腹が立ちます。命綱が自分の命を守っていてくれるものであることが分かってはいても、それはその都度、腹立ちと苛立ちを覚えてしまうのです。これが思った以上にストレスとなります。
けれども、命綱は「命の綱」なのですから、本来は感謝しなければなりません。塗装中はそのストレスをきつくもありがたくも感じながら、作業を続ける結果となるのです。

「頭にくるヘルメット」ですが、命を守ってくれるのです

もう一つの不愉快とは、それこそ瞬間的に腹が立ちます。それは、他ならぬ頭に被ったヘルメットの存在です。
ヘルメットこそ、危険から命を守ってくれる大切な存在です。しかしそれを被ると、頭のてっぺんとヘルメットの空間で数センチほど高くなるせいで、感覚のずれとヘルメットによって上方の視線が遮られることが重なるのです。何度も何度も足場やパイプなどで、頭を打つ状況となります。

ヘルメットをかぶっているので、痛さはさほどないです。しかし、頭を打った衝撃と打撃音は、頭中に響きます。それは一瞬、誰かからいきなり頭を棍棒でも殴られたような錯覚さえ覚え、思いっ切り腹が立つのです。
しかも、懲りずに同じ箇所を何回も打つことがあり、自分に対しても相当腹が立ちます。その腹立ちが極端になったときは、手にした金槌で思いっ切りそのパイプを打ち叩いて仕返しをしたこともありました。
そうするとまあ、多少気持ちは収まるのですが、相手は鉄パイプです。憎らしいことにびくともしません。ですから、時たまはヘルメットを着けずに作業をしたこともありました。
ただし、そのようにして頭を打った時の痛さは、ヘルメット着用時の痛さとはまったく比較になりません。ひりひりとした痛さが2,3日は続く結果となり、やっぱりヘルメット着用は大切なことだと痛感させられました。

命綱にしてもそのヘルメットにしても、万が一の時に生ずるケガの大きさと辛さを、そのようにして事前に教えてくれる大切な役目を果たしてくれていたのです。

ヘルメットの写真
打ち傷だらけのヘルメット(黒い部分が傷痕、塗料ではない)

現在の我が家について

ところで、私がこの家を入手したのは昭和54年のこと、私が34歳の時でした。その頃は、高度経済成長期の円熟期を迎えていて、ますます方々で家が建てられていきました。建築資材も品質の高さが求められるようになり、土地の値段も上昇の一途をたどっていました。
ですから、最初に説明したN市の中古の家に4年間住んだ私たち夫婦は、家のステップアップを図りたいと考え、買い替えを検討するようになりました。中古でなく、新築住宅をともくろんだのです。

新築住宅を検討し始めたところ、新聞のチラシで知ったK町の小さな不動産会社が、私たち夫婦にいくつかの物件を案内してくれました。
その中で特に気に入ったのが、K市にあった現在の32坪の土地だったのですが、その時はまだ建物が立っていない通称「売り建て」方式の物件でした。
“売り建て”とは、「建売」の概念を逆に考えた形です。最初に土地を業者から紹介された時に、「後にここにこんな家が建つ予定ですよ」との図面を見せられ説明を受け、気に入ったら契約して建ててもらう売買方式です。
それは「注文住宅方式」とも違います。注文住宅方式は、自分が現在所有している土地に、自分が選んだ住宅メーカーで、自分が好む設計の家を予算に合わせて建ててもらう方式です。
ですから私たちは、建てる会社が初めからその土地について来ている条件付きの、つまり「建築条件付き」の土地を買う結果となりました。

そのK市の土地は、私が結婚する直前までの若い頃数年間在職したことのある海上自衛隊航空基地がすぐそばにありました。しかも、妻の実家に近いところでもあったので、契約に及んだのです。そこに建つ家は24坪ほどの小さな4DKのプランでした。そこは、土地の道路付が南、東、西の三方道路の角地でしたから、抜群の日当たりと風通しの良さとが気に入りました。
今でこそいつの間にか周囲に沢山の家々が立ち並びましたが、その頃はまだ畑や森が多くて農家が散在していた状況でした。

当時は、夕方に仕事から帰ってくると、玄関先には誰が持ってきたのか分からない野菜が沢山置かれてあることが度々ありました。そのこと自体はもちろんありがたかったのですが、誰が置いていってくれたものかさっぱり見当がつかないものです。
そのため、近所の人に会う誰しもに、必要以上の丁寧な挨拶を返えさなければならないのです。相手に直接的に野菜を置いて行ってくれたのはあなたですか、とも聞けずにただ頭を下げるしかありませんでした。
38年経った今では、もうそんなことは滅多にありません。周辺はいつの間にか、サラリーマン所帯の家々で埋め尽くされるようになったのです。

私はその土地や建物を、当時の価格1590万円で契約して購入しました。その資金繰りは、以前住んでいた中古の家を売却して得たものでした。中古の家が1000万円で売れたので、一部を自己資金とし、あとは住宅ローンを組むことになったのです。
民間の銀行から融資を受けました。本当なら住宅金融公庫の資金を借りたかったです。しかし、借りるには建物の審査があり、それに通らなければなりませんでした。その意味では、私たちが住んでいた中古の家が、公庫の審査基準に合致する優良住宅ではなかったようです。
大手分譲住宅の開発業者による住宅は、公庫の使える高級住宅が多かったです。しかし、私の家の場合は、いわゆるミニ開発の物件でした。

結果として、自分の甲斐性の無さを改めて思い知らされました。借り入れた元本は900万円で、金利が年7,5%でした。今なら信じられないような高さと思われるかも知れませんが、当時はそれでも世間相場より幾分か安かったように覚えています。普通は8%台でした。
ちなみに、公庫は利率が5,5%ほどで、その後も結構長く続いていたように覚えています。その頃の定期預金は、年率が最高時で5,5%の頃さえありました。そのため、当時は借りるにしても貯蓄にしても、いかに金利が高かったか。今ではとうてい信じられない利率となっていました。

そして借入金の返済期間が20年でした。融資の決済が済んだ後で、銀行から送られてきた勧進帳のような長い返済表を見ると、完済するのが54歳時でした。返済する総計額は、借りた元金900万円のちょうど2倍にあたる1800万円と記されていました。つまり、返す利息もちょうど900万円だったのです。
そのビタ一文も違わないピッタリ2倍の数字を眺めながら、妙に感心したことを今も憶えています。そして、その先行きの余りの期間の長さに、気の遠くなるような気分を覚えたものでした。

現在の家とは別に、もう一軒買いました

ところで、これと同じ時期に、私はもう一軒家を買ったというと驚かれるでしょうか。その家は、実は故郷の滋賀県で実家となる家でした。
その頃、滋賀のO市には、借家として借りていた実家に母と6歳違いの弟が二人で住んでいました。ところが、弟には近々結婚する予定でいて、その借家で親と息子夫婦で同居だとちょっと手狭でもありました。嫁さんを迎えるにあたって恰好を付けたいということで、自分たちの家が欲しいという事になっていたのです。

話はここで少し時間を遡ること、私が小学校6年生の頃のこととなります。その頃私たち家族には、ちゃんとした自分たちの持ち家があったのです。
ところがその時、父が事業に失敗して借金返済のために、持ち家を売り払わなければならなくなりました。それ以降は、借家住まいの実家となっていたのでした。
母の話によれば、その実家が人手に渡り退去する日の朝のこと、私は悔し紛れに母に対して、「自分が大きくなった時には、必ず実家を再興させてみせる」と誓ったとのことでした。私としてもその時の悔しさは今でも忘れていませんが、その言葉自体は全く覚えていません。
けれどもその話を、事あるごとに母から何度も聞かされていましたから、母にとってはその時の私の言葉が余程、強く印象に残るものとなったに違いありませんでした。

そこで、その念願を果たす気持ちもあって故郷で家を探し始めたところ、間もなく頃合いの物件が見つかり、それを購入することになりました。
ところが、それを弟名義で買うことにしても、弟がその頃転職したばかりでした。そのため、銀行の融資を受ける資格がなかったので、仕方なく私名義で買うことになりました。
とはいえ、私自身もその頃千葉で家を買ったばかりでしたから、果たして銀行融資がうまく受けられるものかどうかが心配だったのです。

ところが、その物件を探してくれた小さな不動産会社の社長は、そうしたことに対する海千山千の強者でしたから、絶対に大丈夫との太鼓判を押してくれたのです。事実は、その通りに銀行ローンを二重に受けられる状況となりました。現在なら、そうした取引は、あらゆる電子的な情報網が全国的に張り巡らされているので、今ではとうてい考えられない無理な話です。
ですが、今から約40年前の日本は、今日みるような情報網が今ほど発達していなかったものですから、そのスキをうまくかいくぐって、そうした綱渡り的なことが出来たに違いありませんでした。

つまり、私は千葉で自分のための住宅ローンを借りると同時に、滋賀県の他銀行で実家のためにほぼ同額のローンを借りるという、二重に借入資金を申し込む暴挙を試みたのです。
そこで早速、当時私が勤めていた会社の上司には、正直にその理由を説明してお願いしました。その結果、本来なら実在しない京都に東京本社の支社があるとし、そこへ私が転勤することとしました。母たちと一緒に住むための住宅が必要であるとの架空の話をでっち上げ、偽りの証書となる転勤証明書と水増しの源泉徴収書も発行してもらいました。

そうした大博打にも等しい融資申し込みの手続きに及んだのでした。これは今なら、いえ当時においてさえ、立派に私文書偽造また融資法違反となる犯罪に違いありませんでした。
けれども、妙にそれに対する恐れの気持ちや罪の意識は微塵とも感じてはいませんでした。
今はもう時効となったことだから話せることとして、当時はそうしたことが割におおっぴらにまかりこしていた誰もが知るところの公然の秘密ともなっていたのです。
ですから、一般のサラリーンマンたちでさえ、時には住宅を手に入れるために年収金額を水増しした源泉徴収書を勤務先の会社で発行してもらって住宅ローンを組んでいました。また、ボーナス時には、自分の小遣い欲しさで奥さんの目をごまかすために、支給金額を少なめに書き直した賞与の支給明細書を、経理に頼んでは本物と別の偽明細書を発行してもらっていたのです。

そんな些細なことは日常茶飯事でした。今となっては信じられないような話の数々です。しかし、当の融資先である銀行でさえも、そうしたことにはうすうす勘付いていながらも素知らぬふりをしていました。営業成績を上げるために見逃していたような節があったようです。
とはいえ、当時は何といっても好景気に沸いていた急激な高度経済成長期でした。そのような融資の仕方でも、昨今のようなローンの焦げ付きなどは滅多に見られない右肩上がりの時代でした。

そうした状況で、滋賀の実家の方も銀行融資が難なく通過しました。その後のローン返済は、新たに購入した家に住み続ける母と弟で返してゆくとの決め事となったのです。
その大役を果たした私は、直後にまた千葉の自宅に戻ったのですが、形としては千葉と滋賀に同時に家を持つという「快挙」を成し遂げる結果となったのです。
しかも、そのことによって、私はかつて母に誓った念願のお家再興を成し遂げる手柄を果たせたのでした。母の喜びようは、例えようがありませんでした。その頃は、そのようにして私のような一介の安サラリーマンでさえ、そんな芸当のできる面白い時代でもありました。
今となっては、人にあまり自慢して語れるような話ではないのです。ただ当時は、はらはらと冒険心に富んでいた、とても懐かしい、いい思い出となっています。

人に親切にすると信じられない奇跡が起きるのです

現代の我が家に、つい最近また信じられないような偶然の「奇跡」が生じました。それは、我が家の背後で、数年間空き家となっていた家の土地が思わぬ形で手に入ったことでした。そうした話は世間にありがちなことですが、奇跡と思えたのはそれを入手した金額です。

その隣家とは、私たちが新築でここへ越してきたときの裏の家のことで、当時そこには親子が3人で住んでいました。その親たちは、私たちの親にほぼ近い年齢の方々でした。
やがて、そこのひとり娘さんが他家に嫁ぎ、その何年かの後にお母さまが亡くなられて、その後はお父さまが一人で長く住んでおられました。
嫁いだお嬢さまは近くの団地におられたのでよくいらっしゃっていましたが、そのお父さまはもう90歳前後になっておられました。私たちにとっては、その一人住まいが何となく気がかりで、何かに気付いた時には、それとなく親切にしていたように思います。
すると、お嬢さんもそのことをよく知っておられたらしく、後でわかったこととして、お二人ともが私たちにかなり感謝をしていてくださったとのことでした。
その後、そのお父さまは100歳近くまでご存命だったのですが、やがて亡くなられて、それ以降はその家が空き家となっていたのだったのです。

ですから、私たち夫婦は、やがて娘さん夫婦がそこに新築でも建てて戻って来られるものとばかり思っていました。
しかしその数年後に、ふいに売りに出されたのです。空き家になっていたとき、私はその土地を見ていて、自分の土地があまり大きくないものですから、この土地がもし買えたならどんなに嬉しい事だろうとは考えていました。
ただ、経済的にそんな余裕も自信もなかったので、夢物語のようにしか考えていなかったのです。

ところが、それが売り出された直後に、その担当の不動産会社の営業マンがやって来て、いきなり後ろの土地を買いませんか、との話を持ちかけてきたのです。家そのものはたいぶ古いので、取り壊す予定なので土地だけとしての話でした。
それは、私にとっては喉から手が出るほどの話でした。しかし、問題は値段です。営業マンに価格を聞いたところ、その営業マンが売主でもある相続者のお嬢さまに、そのことを話して値段を交渉してくれることとなりました。
そうしたところ、何と驚いたことに、お嬢さまからはYさん(私のこと)が買い取ってくださるなら、ほぼ半額の値段でよいとお話になったのです。なぜなら、お父さまがお一人の時にいろいろと世話になったので、それに対する感謝をこめたお礼の意味で、その特別な値段でよいとの話となったようでした。

ただしこちらとしては、高齢のお父さまがたった一人で住んでおられたという理由だけで、普段それとなく気をかけていただけで、特別に何かをしてあげたような覚えもなかったのです。隣近所のごく当たり前のことをしていたに過ぎなかったものを、お嬢さまはそのように恩義に感じていてくださったことに驚かされました。

そういえば、私にとってはたった一つだけ、そのお父さまが特別に私に対して喜んでくれたと思える出来事がありました。それは、私が一人旅で石川県の八尾の里の「風の盆」が見たくて旅行に行った時のことです。その盆踊りの夜景を写真に撮って、戻って来てから拡大したその写真を額縁に入れて、お父さまに差し上げたことがありました。すると、こちらがびっくりするほどお父さまは喜んでくれたのでした。なぜなら、そのお父さまは、その八尾の町が故郷だったのです。
私としてはただ風の盆が大好きなことと、人が自分の故郷を慕う気持ちを大切にしていることに同感を覚えていたので、そうしたに過ぎなかったのです。しかし、お父さまには、心の琴線に大いに触れたに違いありませんでした。

ですから、多分そうした何気ない小さな積み重ねの親切が、そのような形で返って来たのかもしれません。ふと、聖書の教えにもある「人は撒いたものをまた刈り取ることになる」という言葉の真実性を感じさせた経験となりました。
その土地は小さな28坪の土地でしたが、我が家の32坪と合わせるなら、なんと一挙に60坪の土地となるのです。
そして、今の我が家は、北側に広い庭を有することになりました。車は置き放題、好きであれば畑はやり放題となるのです。
けれども出来ることなら、今の我が家をそのままロープで後ろへ引っ張って、その分南面の庭を広くしたい気持ちです。
もし可能なら、「引き家」をしてでも後ろへ持っていきたいのです。元より、それほどの家ではありませんし、仮にそんなことをしようものなら、その費用だけで立派な新築が建つくらいですから、それは叶いません。
北の庭を美しいバラを植えたとしても、北側ではどうにもなりません。トイレの窓からそれを見ていてもつまらないのです。やはり、きれいなバラの花は、リビングの掃き出し窓からバルコニーデッキへ出て、南の庭で見るものではないでしょうか。

でも、そうしてお嬢さまが好意的に極めて安く譲ってくださった出来事は、私にとってまさに起こりえない偶然の奇跡となったのでした。
人の世って、良きに付け悪しきにつけて何事が起こるかわかりません。ただ一見、偶然の奇跡とはいえ、そこに起こる事柄には、必ず必然性の積み重ねがあるように思えます。
ですから人は、真面目に努力を重ねなくてはならないのです。そう感じました。

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