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【外壁塗装をDIY】還暦記念、古希記念の奮闘記 第二話
公開日:2017/10/17 / 最終更新日:2021/06/24
現在の家に至るまでの経緯
私が初めて家を買ったのはこの家ではありません。
この家に住んで38年の月日が過ぎましたが、それ以前は3年ほど千葉のN市に住んでいました。
初めて買ったのがその家で、土地が28坪、家が20坪ほどの中古住宅でした。
初めて買った家は…
当時は日本中が経済発展の真只中で、全国各地で粗雑な作りの建売住宅が乱造されていました。
「どんなにお粗末なものでも、作れば売れる時代」でしたから、初めて買った家も今思うと実にお粗雑なものでした。
例えば、ちょっと乱暴な足取りで二階への階段を上がろうものなら、家の揺れるのが本当に分かりましたし、その足音が外に響いて聴こえるくらいでした。外壁は薄っぺらな化粧トタンの波板で、壁内に断熱材などは一切入っておらず、窓枠は今のようなサッシではない木製の枠でした。
そのため、冬などは隙間風が容赦なく吹き込んで来て、とても寒い思いをしました。
キッチンは今のワンルームアパートで見られるような幅1,5mくらいの小さな流し台セットで、下に排水管がむき出しで見えているようなお粗末なものでした。
お風呂場は、浴室の大きさが畳一枚くらいで、浴槽は半畳大のタイル張り。
お湯張りは、台所にある大型瞬間湯沸かし器につながったパイプを通して風呂場に引き込んだものを、水栓で浴槽に落とし込む方式でした。
そのため、お湯を張るのに時間がとてもかかり、たまったお湯がタイルの浴槽で冷やされてしまったものです。
もちろん、入浴中でも体がなかなか温まらず、真冬には寒い思いしての入浴となりました。
今日のようにボタン一つを押すと女性のきれいな声で「♪、追い炊きをします」とはいかないのです。
トイレについては今更書きたくもありませんが、片手落ちになるといけないので書きます。
水洗…などとは到底程遠い、日本古来の伝統的ないわゆるボットン便所でした。つまり、汲み取り方式のトイレだったのです。
それは我が家だけでなく、近所が軒並みそうでした。汲み取り車が来ると、長くて太いホースを背負った作業員が忙しげに次から次へと家々を回り、ご近所一帯が得も言われぬ田舎の香水の香しさで満たされたのでした。
家の間取りは、確か1階が6畳1間の和室1室で、あとはそれらの水回りと、2階に6畳と3畳半の和室のそれだけでした。
当時、日本の住宅が欧米の国々から「ウサギ小屋」と揶揄され小ばかにされた、しかもそれ以前の建売住宅だったのです。
しかし、それでも生まれて初めて自分が買った家でしたから、とても嬉しかったことを覚えています。
結婚してまだ4年目くらいで子どももいなかったので、新婚気分の水入らずの楽しさでした。
借家住まいでの若かりし頃の生活
さらに、その家を買う以前の4年ほどは、M市での借家住まいでした。
私たちが結婚とほぼ同時に、友人の紹介でそこに転居することになったのでした。
家賃8,000円の平屋の木造住宅で、いわゆる「家作」と呼ばれた当時の借家で、二軒長屋となっていた造りでした。
当時の家賃の8,000円は、一般的なのアパートの世間相場が2DKで12,000円くらいでした。
なので、かなり安くて駅にも近かったので、それなりに気に入っていたのです。
築年数は、その頃で優に20年以上は経っていたかと思われるくらいのボロ屋でした。
間取りは3畳と6畳の和室の2間だけ。台所などに至っては畳1枚分もないくらいで、お風呂は木製の円形浴槽でした。
さすがに五右衛門風呂ではなかったものの、テレビの時代劇ドラマに出てくる江戸時代の棺桶のような底の深いお風呂でした。
けれども、私はその風呂が結構気に入っていたのです。湯に浸かると、背中に柔らかい木の感触が伝わって来て、とても心地良かったことを今でも覚えています。
少なくとも、タイル張りの浴槽よりは上等でした。
何よりも、4年もの長い恋愛時代を経ての新婚生活でしたから、とにか二人で家庭を持てたこと自体が嬉しくて楽しくて、家の少々古いくらいや不便なことくらいは問題にはなりませんでした。
ところが、ただ一つだけ困ったことが起こりました。
それはある夜のこと、私たち夫婦が二人でふざけ合っていたところ、隣の住人のご主人がやって来て、「うるさいから静かにしてくれ。普段からテレビの音が大きすぎる」との抗議を受けたのです。
そう言われるのも無理はありませんでした。隣とは二軒長屋で薄い壁を隔てただけのお粗末なお隣同士でしたから、その薄い壁を通して隣に音が響いていたに違いありません。何しろ同じ屋根の下に二世帯が住んでいるわけで、薄い壁は雑音の防音装置としては不十分だったのでしょう。言われるまでは気づきませんでした。
そのことによって、こちらは多少神経質となり、隣家の気配に妙に敏感となってゆきました。
そうしたところ今度は、こちらが今では気付かなかった妙な振動音に気付かされる結果となりました。
それは私たちが就寝後の夜中に、隣からドタンバタンとの音が聞こえるようになり、そこに時々悲鳴のような女性の叫び声が入り混じって聞こえてくるようになったのです。
初めはそれを夫婦喧嘩かと思ったのですが、その実情を知るのに時間はかかりませんでした。
隣のご家族は私たちより一周りほど年上のご夫婦で、子ども二人いたのです。
しかし実は、その「騒音」の正体は、子どもが寝静まった後のご夫婦の夜の営みだったのです。
気付いてみれば、それがほとんど毎晩のことでした。
初めは興味津々だったものの、やがてそれが気になり始め、神経が苛立つ気分となり、軽い不眠症状さえ覚える結果となってしまいました。
とはいえ、事がことだけに、また自分の生来の気の弱さゆえに、向こうのご主人のように抗議にも行けずに、文字通りの泣き寝入りとなりました。
当時は、そのような艶話が世間にはごろごろと転がっていて、今思うととても懐かしい笑い話です。
しかし、そうした話は如実に、当時の日本の貧しかった住宅事情を象徴的に物語るものとなっていたように思えます。
「永井荷風作『四畳半襖の下張り』」。
周りには、そうした家作が数軒建っていて、私たちのように二軒長屋方式の家もあれば、二階建ての一軒の家に上下別々の所帯が住んでいるような借家方式も存在していました。
例えば、一階は甲さん家族が住んでいて、二階には乙さん家族が住んでいるという具合だったのです。
私の目の前の家作がまさにその通りでした。
ところが、その二軒の苗字の対比と言うか合致というか、それが笑えるのです。
そこには二階に「桜木さん」が住んでおり、一階に「花見さん」が住んでいたのでした。
当時は、そのような貧乏生活でしたが、そうしたとりとめのない出来事や偶然で、妻と何度も笑い合っては時をともに過ごす楽しい20代の新婚生活となっていました。
現在でも、春が訪れて世間で花見が騒がれるような季節になるたびに、その桜木さんと花見さんのことを懐かしく思い起こす。
いい思い出となっています。
話が大きく逸れてしまいました…
話題を元の外壁塗装に戻さなければなりません。
11年前の第1回目の外壁塗装は、約40日間をかけて無事に終えることが出来ました。
いざ完成して足場が外されると、幕が切って落とされた途端に歌舞伎の立役者が大見栄を切って、晴れ舞台に突如として現れたかのようです。
文字通りに、厚化粧を施し美しくに生まれ変った姿で登場してきました。
しかも、それは本当に自分がこれをやったのかと、自らを疑うほどに見事な仕上がりとなったのです。
ですから、外壁塗装を成し遂げたことの充実感、達成感、満足感に満たされました。
体のどこかにかすかに残る心地よい疲労感を意識しながら、その成果に酔いしれたものでした。
近所に住む義兄が、その出来映えを見に来たときには、「こんなにも綺麗になるんだー」と絶賛してくれました。
その時、私は思いました。「私は勝った。自分に打ち勝つとともに、屋根を塗り直したご主人にも勝利したのだ」と。
その時、私は再び決意しました。
「よーし、もう一度、10年後にも外壁塗装に挑戦しよう。そして再びその達成感や充実感、また勝利感や満足感を味わうのだー」と。
その後の11年間は、大手ビル管理会社の契約社員として再就職しました。A市にある、千葉県とA市の主に社会福祉的な機関が入る複合ビルに派遣されて、そこの防災センター要員として働きました。
気が付けば、私は世間で古希と称される70歳を少し過ぎた頃となり、会社規則により定年退職となりました。つまり、二度目の定年を迎える身分となっていたのです。
年は取りましたが、今でさえ体力や気力が衰えた自覚は全くなく、むしろ横溢(おういつ)しており、相変わらず病気知らずの健康体です。
その時、以前から温め続けてきた2度目の外壁塗装に挑戦する気持ちが、再びふつふつと湧き上がってきたのです。
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